読書と読書会

読書会を文化として社会に根づかせたいと考えています。

【クラブ・100分de名著を語ろう】私の名著~『読書と社会科学』

f:id:Yorimichi-Online:20210621165556j:plain

 

▼以下の文章は、6月17日(木)のクラブ「100分de名著を語ろう」の席上、「私の名著」として報告されたものの元となったものです。報告は私と、もうお一方が『甘えの構造』(土居健郎)について行いました。以下、私の元原稿です。

 

        *        *        *

 

それではお時間を頂戴して、これから内田義彦さんの『読書と社会科学』についてお話をさせていただきます。

 

この本は、1985年に刊行されています。このあと、内田さんは1989年に亡くなっていますので、晩年の著作といっていいかと思います。

 

この『読書と社会科学』は、3部構成となっています。今回お話しするのは、そのうちの第1部のみですので、その点お含みおきください。

 

3部のあらましを話しておくと、第1部が「『読むこと』と『聴くこと』と」です。これは1981年に市民の手で自主的に開催された複数の読書会での話をまとめた、その意味ではフィクションです。

 

第2部は「自由への断章」、第3部が「創造現場の社会科学」と銘打たれています。いずれも、セミナーや講義などでのお話しが基となっているものです。

 

今日お話しをしようと思っているのは、

 

・情報として読むことと、古典として読むことの違い、

・読むことが個性的になること、

・楽しさの内実を深める、

・自由を獲得するための読書、

・感想文を書く重要性、

 

などについてです。

 

さて、第一部での最初の論点は、情報として読むことと、古典として読むということの対比、違いと言うことです。

 

ここでの情報と言う場合、重視されるのは、一読して情報が正しく伝わること。つまり、誤読の恐れがない、あるいは少ないということです。例えば、新聞記事や道路標識などの「文章」です。

 

その一方で、古典は多義的な読みを求めるものです。どちらが優れているまたは重要であると言うのではありません。例えばカタログ雑誌のようなものであっても、読む人にとって、古典として読むと言う事は可能です。

 

ここで、古典について振り返っておきます。いわゆる「古典古代」という言い方がありますが、ここでの「古典」は、最も広い意味で、読んだ人にとっての古典であると捉えてください。読んだ人の「眼」と「考え方」を作り変える。そのような読まれ方をするものを、さしあたって「古典」であるとしておきたいと思います。ですので、読み方、読まれ方、つまりは読者の関わり合い方によって、「古典」であることが成立するのだと考えます。

 

先に「多義的」と述べましたが、古典とは、誠実かつ精密に読み解こうとするほど、むしろ「個性的な読み」が成立するとされています。ここで注意しておきたいのは、個性的であることと、恣意的であることとは異なることです。一旦は著者を全面的に信頼し、その上でなお残る、違和感については己を「賭ける」。そのような「読み」の訓練の場の一つが読書会であり、後で述べる「感想文」を書くということとされています。

 

しかしながら、剣豪の修行のような「読書会」だけを連想しなくてもよいと思っています。読書会は、楽しさの内実を深めつつ、進行していくのがよいとされています。つまり、内田さんの言い方を借りれば、「魂がその妨げを排除しながら、伸び育っていくときの情念」こそが「楽しさ」の内実であるとされているのです。

 

さて、このような「読書」は、何を目指しておこなわれるものなのか。もちろん、楽しいことが前提なのだとは思いますが、究極的には、共々に自由になる、あるいは、自由であることを目指すのだと内田さんは述べています。

 

いま感じている、ああ、楽しかったという感慨は、誰にも侵されるものではない。誰にも奪えない。そうしたことを足がかりとして、新しい眼、新しい見方や考え方を獲得し、より自由になることこそが、読書の究極の目的、とはいえ、それだけでは堅苦しいので、「目的の一つ」程度にしておきたいと思います。

 

最後に、「感想文」を書くことについて述べて終わりたいと思います。内田さんは、これはと思った本については、絶対的に感想文を書く必要があると述べています。自分用の書き込みやメモではなく、あくまでも他人に読まれること、つまりは公開することを前提とした書き込みをする必要性を訴えています。これがあって初めて、本当に自分のものとして私自身を作り変える。

 

以上、いささか古臭い読書論を紹介させていただきました。

 

なお、私は、このクラブを運営している際、名著とは「古典」の言い換えであると感じていました。その考えの一端がお伝えできていたとしたら、今日のお話しは成功だったかと思います。どうもありがとうございました。

 

        *        *        *