読書と読書会

読書会を文化として社会に根づかせたいと考えています。

【note】私がもう一度本を読めるようになるまで

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▼以前投稿したブログで、私は次のように書きました。

 

読書ができるようになることは、自分を言葉が支えていることへの信頼の回復であり、それはまた、人間に対する信頼の回復なのであろう。

 

▼今回のエントリーでは、それを受けて、もう少し本を読めなかった私が、もう一度読めるようになった経緯について、若干の考察をしてみようと思います。

 

▼私は長く躁鬱病(近年では「双極性障害」。坂口恭平氏にならって、この呼称を使います)との診断を受けています。ご他聞に漏れず、当初は鬱病と診断されていました。この躁鬱病鬱病とを区別して診断するのはとてもむずかしいようです。

 

▼始めは鬱病と思われていたので、抗鬱剤が処方されていました。症状としては、徹底的に「やる気」が起きない、というものです。読書についても、当然のように読む気力が削がれていました。これは他にも、性欲が減退したり、映画を見たり音楽を聴こうとしたりすることの意欲が減退していたりという表れ方もしていました。

 

▼その一方で、それらが「亢進」してしまう時期もありましたが、そのことについては稿を改めるか、あるいは書かないことにしたいと思います。

 

▼ともあれ、私は発症して現在までの前半分程度の時期、まるで本を読めていませんでした。それは、就労期間の後半、多忙で本を読めなかったというのとは、質を異としているものでした。時間がない「から」本が読めなくなったというのではないのです。

 

▼いま、ここで「本を読めなくなったことの理由」を捉え返してみようと思っているのには、理由があります。私がなぜ読めなくなり、また、そこから再び読めるようになったことの理由が抽出することができれば、この疾患がきっかけとなって本を読めなくなっている人にとって、何らかの参考となり、場合によっては「希望」になるのではないかと考えているのです。2年半程度「オンライン読書会」を続けている理由の一つも、そこにあると考えています。

 

▼そろそろ結論めいたことを書きましょう。私が疾患によって、いっとき見失っていたものは、「自分を含めた」人間への信頼であり、人との対話を拒絶し、また、コミュニケーションへの欲求が失せていたのだと考えています。

 

▼これらを回復できたのは、記憶が相前後しているので、自信を持って断言できないのですが、曲がりなりにも「書く」こと(=主としてブログを書くこと)であり、ネット通話を通じて「語る」ことであったと考えています。もちろんそれには、読んでくれる人、聴いてくれる人の存在があってのことでした。

 

▼いま、読書会で継続的に読んでいる『本を読めなくなった人のための読書論』で、著者の若松英輔さんは、「読めなくなっているときには、まず書いてみることがいい」(主意)と述べています。この主張は、氏の複数の著作でも持論として展開されているものです。

 

▼極めて乱暴に言うと、呼吸にあたって息を吐くこと(=ものを書くこと)と吸うこと(=読むこと)とは、相即の関係にあり、読めないと思っている人は、「読む」だけの人になろうとしすぎているのではないかと述べられています。

 

▼人との信頼を回復し、対話を始めようとすること。このことが、もしかすると本を「読む」ことの回復に通じているかもしれません。